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SNS誹謗中傷の心理と対策

 SNSでの誹謗中傷が問題となっています。誹謗中傷・非難をされ、困っている方、もしかしたら我が子がSNSで誹謗中傷・非難をしているかもしれない、自分自身も知らず知らずのうちに誹謗中傷・非難だと指摘されてしまう投稿をしているかもしれない。そんなことを一度立ち止まって考える必要がありそうです。また、自分の親しい人が誹謗中傷・非難の被害者となっている可能性もあります。そんな時どうしたらいいのでしょうか?

 今回は、誹謗中傷・非難と健全な批判の区別をつけられるように、解説をしていきます。

まず、あなたがされている、あなたがしようとした投稿は、我が子が送ってしまった投稿は、どちらでしょうか?






 ネットリンチは、対象が有名無名、匿名にかかわらず、減らしていくことが望ましいでしょう。誹謗中傷・非難は、言論の自由の範疇ではなく、単なる人権侵害だからです。

 さて、まずネットリンチに遭っている人が、もしくはネットリンチ被害者の周辺の人がどんな存在なのか、下図を見てイメージしてください。

これは有名ないじめの4層構造です。


 被害者にとって、加害者・観衆だけではなく、何も行動をおこさないけれど、ネットリンチの状況を見ている人の存在も加害者となります。

 また、友人・知人・家族・ファンなど親しい人に対しても恥の感情から、相談ができなくなり、疎外感が高まり孤立していきます。

 さらに、ネットリンチの場合には、その一部始終が記録として残りますから、時を経て蒸し返されたり、新しく出会った人に名前を検索されれば、その過去を知られることになります。現在・未来永劫逃げられない状態に追い込まれます。

 「一部の変な人たちの行動で、私は良識を持って生きているから関係ないわ」ではなく、良識ある人が誹謗中傷しそうな人を止めることも必要です。



 さて、話を戻して。基本的な構造を理解した上で、あらためて、誹謗中傷と批判の違い、正しい批判とはなにかを知っていきましょう。

 自分は誹謗中傷・非難なんてしていないと思っている人も、表現が未熟で誹謗中傷・非難になっているかもしれません。ツイートなんかを見ていると、ネット独特の主語のなさやひとり語り、皮肉の草・W・笑なのか、自虐なのか、どっこに向かって発言しているのか解釈しずらい文章が散見されます。受け取る側に間違って、誹謗中傷・非難と捉えられる可能性もあります。

 発信者情報開示法の改正について、行き過ぎた発言の権利の剥奪は許されませんが、誹謗中傷・非難と批判は明らかに異なるもので、誹謗中傷・非難を禁止したとしても表現の自由が侵されないことは一目瞭然ですよね。


批判は、発言や行動、言説など物事について、論じることですが、

誹謗中傷・非難は、人格を攻撃し、傷つける、責め立てることです。


 私たちには基本的人権があります、私たちの自由は他人の権利を侵さない範囲で認められた自由です。だから、誹謗中傷・非難は行ってはいけないのです。社会を変えるために、悪政をおこなう為政者に意義を唱えるには、非難も誹謗中傷も必要なく、健全な批判をすればいいのです。誰かが何か間違った行いをしたのなら、誹謗中傷・非難せずとも、行動を改めるように情報を提供し、考えてもらうように伝えればいいのです。


 健全な批判をするということは、批判をしたい物事について一通りの情報を持っており、相手が納得するだけの材料をもって、〜という視点もある、〜の考え方が抜けている、〜に矛盾がある、それをあなたはどう考えているのか?と相手に伝えるものであり、相手に思考を促すものです。

 素朴な疑問もOKでしょう。あれ?自分は〜だと思うのになんでこの人はこんなこといってるの?間違っていると思ったのなら、「バカ」「違うよ」「こいつ専門家なのに、間違ってるよ。〜は○○だろ」とコメントせずに、「〜だと思うんだけど、なんでそう言ったの?」と質問をすればいいのです。

 何か発言で自分が傷ついたのなら、「私は〜という発言で、傷つきました。なぜなら、私には〜な体験があって、〜だからです」とコメントすればよくて、「死ね・消えろ」とコメントしなくても気持ちは伝えられますし、相手は言動を改めます。

 一方通行の誹謗中傷・非難と大きく異なる点は、健全な批判は対話として成立する点です。健全な批判をするためには、ロジカルシンキング(論理思考)とクリティカル・シンキング(批判的思考)の2つの思考を駆使する必要があります。

 ロジカルシンキングは、物事に筋道を立てて、各段階、各要素別に分類、分解して思考することです。

 クリティカル・シンキングは物事の前提の正誤を検証したのち、その事象の本質を見極めていくことです。

 つまり健全な批判とは、2つの思考を駆使して、本質を見極めて、いい・悪い、正しい・間違っているという極論ではなく、最適解を見つけて行く作業を批判する相手とともに行っていくことなのです。


ここからは、個人的な話からの例ですが、

 私はテレビに出たての頃にかなり炎上し、誹謗中傷・非難をされました。その時の恐怖やしんどい気持ちは時々今でも、トリガーがひかれると思い出します。

 大学院に入り、研究生活を送ると、研究や論文をいいものにするためには必ず批判を受けます。たとえば、論文の査読コメントなどは、人によってはかなりダメージをうけるようです。周囲から、フルボッコにされてズタボロになると脅されていたので、ネットで炎上した時のことをイメージして戦々恐々としていました。

 しかし、研究生活での批判は、拍子抜けするほど優しかったのです。それは、健全な批判のもとに行われるからです。ゼロから考え直さなければいけないようなご指摘もあるのですが、それでも私の人格や尊厳は何も傷つかないですし、よりよりものになる意見なので、逆にありがたい。


「説明したのかもしれないけど、〜のところがよくわからなかった。そこは、〜の理論からすると〜〜だと思うのだけど、あなたが〜と考えたのはどうして?」

「〜についての説明は、〜の視点がないと、〜だから矛盾してしまうように感じるが、どうだろう?」

「〜の視点からも考察できると思うが、やってみてはどうだろうか?」


 ごく一部にアカハラをするような先生は、不健全な批判・非難・攻撃をしてきますし、未熟な院生だと健全な批判のつもりで、攻撃している人もいるので、アカデミックの世界だから皆が皆、健全な批判ができるとは限りませんが。


 すごく長くなりましたが、皆さんも健全な批判をするという視点で、どうしてもコメントしたくなったらしてみてください。

 単なる感情の発散なら、ネットに書き込まず、独り言を言うか、リアルな友人に個別にラインでもおくって、「アイツムカつくー」「だよねー」とやりとりすればいいことです。


 健全な批判は、健全な議論を生み、社会や相手を改善していく力を持ちますから、大切です。健全な批判になっているのなら、萎縮せず発言すればいいでしょう。


最後にもう一度、あなたが、あなたの子どもがしていること、あなたがされていることはどっち?

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